2月1日、大好きな婆ちゃんが103歳で亡くなった。あと数日で104歳になる寸前、爺ちゃんが亡くなってから30年も後だった。僕は初孫ということもあり、二人には本当に可愛がってもらった。
新聞記者だった爺ちゃんには恐ろしい数の映画に連れていってもらった。新宿区の高田馬場にあった名作映画館パール座、旧作2本上映で500円くらいだったと思う。今でも大好きな「007シリーズ」を始め、ありとあらゆる映画に毎週のように出会わせてくれた。一度、爺ちゃんの予想とは異なり「エロいシーン満載の映画」だったことがあった。焦っている爺ちゃんの横で、小5の僕は疲れて寝たふりしながらも、こっそり観てドキドキした思い出がある(笑)。
婆ちゃんには旅行の楽しさとたくさんの美味しいものを教えてもらった。小学校の休みになると、婆ちゃんの住んでいる新宿区と関係のある(安く泊まれる)人気ホテルや人気旅館を予約してくれた。箱根なんかに行く時は、今でも大人気の電車「小田急ロマンスカーの先頭車両の最前列」を抑えるために、朝一から並んでくれた。近くの鰻の名店や、オムライス、かた焼きそば、フルーツパフェの美味しい店などにもよく連れて行ってくれた。そして何よりも、名古屋出身だった婆ちゃんが「味噌串カツ」をよく作ってくれたが、豚肉と豚肉の間にネギが入っていて、しつこくなく、本当に美味しかった。ソースカツしか知らなかった僕にとっては感動する味だった。また、中学生の頃、小遣いがなくなると親に内緒でこっそりと婆ちゃんに会いに行った。「近くまで来たからさー」と、(孫たちのためにいつもあった)キリンレモンサイダーを飲みながら1時間くらい会話した。帰りになると「お母さんに内緒だよ。」っていつも2000円をくれた。何もかもお見通しのようだった。今思うと、年金生活の婆ちゃんに申し訳ないことをしたが、あの頃は本当に嬉しかった。若い頃、プロボーラーを目指し、日本舞踊やラジオ体操の強化委員を行い、長唄を歌い、年を取ってからもゲートボール大会に燃え、90歳近くまでSMAPのドームコンサートに参戦していたパワフルな婆ちゃん。90歳を超え、10年前から東京都の老人ホームに入った。子供や孫たちが代わる代わる訪れ、僕も帰省する正月とお盆の休みや東京出張の隙間には必ず会いに行った。「今回が最後かも…」と思うが、いっつも元気で、「今の元気なら大丈夫だよ。長寿のギネス記録塗り替えてねー」と言うと、「そんなの絶対に無理だよ~」と大きな声と満面の笑顔で答えてくれた。悲しいことに、ここ2年、コロナの関係で面会も出来ず、全く会えていなかった。人と話す回数も減ってきたからか、娘である僕の母親のこともよくわからなくなっていたようだった。食欲がなくなってからも、大好きなプリンだけは自分の力で食べたと聞いた。パワフルな婆ちゃんらしい。葬儀の日、タイミングよく授業も対策もなかったので、東京に行けた。最後食べられなかったと聞いていたので、大好きだった「穴子」の弁当を品川駅で買って、棺桶の婆ちゃんの口元に入れた。悲しいが、いっぱいの思い出をくれたこと、長生きしてくれたことに本当に感謝だ。火葬の後の骨上げの時、婆ちゃんの骨がいかにしっかりしているかの説明を受けた。大正時代に生まれ、関東大震災や世界大戦を経験しながらも3人の子供を育てた婆ちゃんのたくましさに感動した。その3人の子供の長女が僕の母で現在は埼玉県川口市在住、次女も埼玉県川口市在住、そして長男は大卒後にデンソーに入社し、40年位まえからこの岡崎市に住んでいる。実は僕は小6生の時に岡崎市に遊びに来て、東京で手に入らなかった「ガンプラ(ガンダムのプラモデル)」を発見して興奮し、南公園のゴーカートに乗って喜んだことがあるのだ。今思うに八丁味噌の味噌カツの味も、叔父さんの住む岡崎市の良いイメージも、すべて結び付けてくれたのは婆ちゃんだった気がする。
葬儀の写真や戒名など事前に準備し、葬儀代等何から何まですべて婆ちゃんの貯金で賄えたと聞いた。さらに、年金は月の初め1日に亡くなっても、その月の全額が支給されるらしい。1日まで生きた婆ちゃんは最後までやっぱりたくましかった。
どうか天国でもパワフルに過ごして楽しんでほしい。そして、いつか僕がそっちに行ったら、また「味噌串カツ」を作ってほしい。今度は小遣いをもらわないで、純粋に「婆ちゃん、やっぱり美味いよー」とキリンレモンを飲みながら感謝を伝えたい。そして、大好きだったSMAPの中居くんの「その後」も教えてあげよう。