先日、祖父の法事があった。
世の中にはいろいろな宗派があるし、各家庭で法事がどのような流れで執り行われるかさまざま違いがあると思うが、
わたしの家庭では、お坊さんが一人でお経をよんだ後、みんなでお経を唱えるターンがあり、最後にお坊さんからありがたいお話がある。という流れだった。
元剣道部で鍛えられているとはいえ、長時間の正座はきついのだが、お坊さんから意外と面白い話が聞けたり、お坊さんの個性がでるのでお話コーナーは楽しみな時間でもある。
先日は、「皆さんが一緒によんだお経って実際何が書かれているか知ってる?」とのテーマ。
恥ずかしながらわたしは、1ミリも意味が分からないままによみあげるだけであった。
ウィキペディアには【大きく二つの部分によって構成されている。「総讃」の2句に続く前半は、「依経段」と言われ『仏説無量寿経(大無量寿経)』に依って明らかにされている、浄土往生の正因は信心であり、念仏は報恩行であることを説明し讃嘆している。後半の部分は「依釈段」と言われ、インド・中国・日本でこの教えを正しく伝えた七高僧の業績・徳を讃嘆している。】と書いてあった。
よくわからないが、どうやら『大切な教え』と『僧たちの活躍』についてまとめられているらしい。
この『大切な教え』をまとめるにあたり、こんなエピソードがあったようだ。
※諸説あるかと思いますが聞いた話を覚えている限りで簡単に書きます。お許しください。
「昔々、仏教の開祖である釈迦は悟りを開き、それを口で弟子たちに伝え、布教していたそうだ。
釈迦の弟子たちも、それを受け継ぎ、教えの口承が行われていたらしい。
しかし、その弟子たちもやがては老いてしまいう身である。
このままではやばい!編集しよう!となり編集され今のお経に繋がっているんだよ。」
とのこと。
しかし、そんな編集を進めていく中で、こう批判が出てきたそう。
「編集してるってことは、釈迦が直接言った言葉じゃないじゃないか!変わってしまっているに違いない!」と。
たしかに最もである。
最近のネットニュースなんかでも、本人の言葉とニュース原稿に大幅な違いや脚色があることが多い。
しかし、この批判に弟子たちはこう言い返したそうだ。
「時間をかけて編集を進めることで、変化が生まれることはあるかもしれない。でもそれは逆に、先生の本当に伝えたいことや教えの真理がつかめるようになったことでもある。」と。
なるほどなぁと思った。
昔は「なんでこんなことしなきゃいけないの」「なんでこんなことで怒られなきゃいけないの」と親や先生たちに言われて思うことが何万回もあった。
でも大人になった今でこそ、ちゃんと理由や意味があったことに気づく。
よく自然教室でカレーライスを1度作っただけで「お母さんの偉大さがわかりました」なーんて言うし、当時はそう思っていたが、この年齢になって母の偉大さはカレーライスなんかじゃ到底語れないことに気がついてきた。
色々なことを知って、自分の中に取り込んで、整理して、生かして。
この仕事をしているからこそだが、いいと思うこと、ためになると思うことは生徒たちに伝えて。
そうやって今やっていることや過ごしてきた時間はちゃんと未来に繋がっているんだなぁと考えさせられた1日であった。