毎週夢現塾には小学生を対象に作文の宿題というものがあり、週に1回こちらが出すテーマに沿って全身全霊をかけて超大作を完成させてきてくれるのだ。
そして、私も全身全霊をかけて彼らの超大作に、審査員かのごとく評価を付けていく。
つい最近感動したものといえば、「クリスマス」をテーマにした作文において、こんな表現が使われていたことだ。
“いつもなら暗い夜の道も不思議とお祭り騒ぎだった。シャンシャンと音が鳴るように雪が踊り始める。前日にはプラスチックの造花だったツリーが、今日は聖なるオーラを放ちながら、ツリー上部に輝く星がにっこりと笑っている。
-中略-
雪はすっかり溶け、地面だけが濡れる朝。ツリーはライトの電源が切れ、ただの置物になっていた。“
本人には許可をもらい、中学生にこの作文を披露したところ、揃いに揃って開いた口が塞がらなかったのは言うまでもない。
「俺が書いていたころとはレベルが違う…」と一言つぶやき、本気の苦笑いがちらほらとうかがえた。
そんな作文ではあるが、今回のテーマは彼ら11、12歳にとって少しばかり苦であったようだ。
今回の作文のテーマは、『
自分自慢』。こちらも揃いに揃って開いた口が塞がらなかったのは言うまでもない。
「自慢=良くない」
自慢なんてしたら叩かれる。自慢なんてしたら笑われる。自慢なんてしたら、自分のこと好きだって思われる。こう思っている日本人が大半だろう。
なぜ自慢はいけないのか。もちろん、場の空気や人を見下すような発言をするような自慢は肯定できないが、なぜ人より秀でているものに関して自信を持って話すことがいけないことなのだろう。
「出る杭は打たれる」なぜ打たれなければいけないのだろう。
観光地で外国人を見かけると驚くことがある。
彼らの自撮り、そして彼らのポーズだ。
何回か写真を頼まれ、撮ったことはあるが、迷いなく「さあ、私をご覧!」と言わんばかりのモデルポーズをきめている人が大多数。初めは驚いた。しかし、海外旅行に行っても、街中で写真を撮っている人を見かけても誰もがモデルポーズをしている。
「外国人たちは、みんなナルシストなんだな…」と、冷たい目で見てしまうこともあった。
しかし、大学生の時、外国人の友人と話しているとこんな会話が出てきた。
「なんで日本人たちは自信がないような感じでみんな振る舞うの?」と。
「謙虚さ」を大切にしている日本人にとって、外国人の方からはそう映ってしまっているようだ。「自分の好きなところは?」という質問にも即答できない日本人は多いと言う友人。
しかし、こちらが褒めても「そんなことないよ!」と切り返してくる日本人には驚いたそうだ。「なぜこちらが褒めているのに、素直にありがとうと言えないのか…」、私の友人の頭には疑問符が消えなかったようだ。
ふとそんなことを思い出し、みんながどんな反応をするのかを知りたかった気持ちもあり、今回のテーマを出すことに決めたのだ。
すると案の定、教室中を飛び交う声、声、声…
「先生!自慢がない人はどうしたらいいですか?」
「そんなの書いたらナルシストだって思われますよ!」
私は答えた。
「ナルシストの何がいけないの?どんな小さなことでも自慢できることがあるなら、自慢してほしい。それが自分の自信に繋がるはずだよ。
“何も自信がない人”より“どんな小さいことでも自信を持って生きている人”の方が私はかっこいいと思う。だから、ナルシストでいい。自分のことを自信を持って好きだって言える人になるべきだと私は思うけどね。」
自分の本当の味方は自分。誰もが特別な存在であるべきなのだ。
今週どんな作文を彼らは書いてくるのか楽しみで仕方がない。これは幸田校の6年に限ったことではあるが、日報を読んでいる読者の方々にも、ぜひ自分自身に問うてほしい。
「自分のどんなところが好きか?どんなところが自慢できるか?」