私の車の助手席頭上にはぶらぶらと緑色の物体が揺れている。
背中にはオレンジ色のトサカと赤色の鞍が付いており、鼻は大きく、茶色のオシャレなブーツを履いているぬいぐるみ。
そう、「T. Yoshisaur Munchakoopas(T.ヨシザウルス・ムンチャクッパス)」、通称ヨッシーだ。
任天堂のゲーム「スーパーマリオワールド」から登場し始めたキャラクターである。
小学生のころ、よく兄と一緒にそのゲームに夢中になった。懐かしのスーパーファミコン時代だ。
サブの私はいつもルイージ担当だった。「たまにはマリオでプレイしたい!」とよく揉めたものだ。そんな兄も中学生となり、ファミコンよりもパソコンに夢中になってきた時期。私は学校から帰宅するやいなや、ファミコンのスイッチを入れた。
憧れの”マリオ”へとなる瞬間がとうとうやって来たのだ。
全ての面をクリアしている兄のおかげで、好きな面を選びたい放題(本来、スーパーマリオワールドは、1つずつ面をクリアしていくゲームだ)。
私は順序など一切気にせず、一番お気に入りだった面を迷わず選び、「早くヨッシーに乗りたいっ★」というワクワク感に心躍らせコントローラーを握りしめた。
軽快な音楽が流れ始め、「MARIO START!」の文字。
そこには緑色の帽子ではなく、赤色の帽子を被ったマリオの姿が…!やっと私が主役になれた気がした。
さあ、最初はダッシュだ!Bボタンで走り出し、Aボタンでジャンプ。すると、憧れのマリオが空中へとゆっくり落ちていった。
「…!?」
固まる私。加速しすぎてジャンプが上手くできなかったのだ。開始10秒足らずで即座にスタートへと戻ってしまった。
気を取り直してまた同じようにダッシュ!
今度はうまくジャンプできた。しかし、レベルの高い後半の面を選んだせいか、着地できたと思いきや、急に地面が上下に動き出す。
焦りつつも再びジャンプ!
すると頭上にいた空飛ぶカメにぶつかった。マリオがまたもやゆっくりと落ちていく。
「早くヨッシーに乗りたい!」
憧れのヨッシー…
リンゴを食べさせたい!チビヨッシーを運びたい!火を吹かせたい!(分かる人には分かるだろうか笑)
そんな希望は愚か、ヨッシーにすら会えない自分がそこにはいた。
それから二十数年。
車内でヨッシーが揺れるたび、そんなほろ苦い記憶を思い出す。
今思えば、1面ずつクリアしていくことこそマリオの醍醐味なのだろう。
同じ任天堂でも、ポケモンはゲーム内の主人公が所持するポケモンのレベルを上げていくゲームだが、マリオは違う。
一度穴に落ちてみて、穴に気づく。悪者にぶつかってみて、当たってはいけないと気づく。いろんなボタンを押してみて、いろんなボックスに頭突きをしてみて、アイテムを手に入れ、使いこなす。
全て「一度やってみる」ところから始まる。失敗したらスタートに戻り、同じ失敗をしないよう気をつける。
マリオ、ではなく自分自身(プレイヤー)がゲームを通して成長するゲームこそがマリオなのだ。
だからこそ面白いし、同じところで失敗したら悔しいし、ゴールできたときは快感なのだ。
全てにおいてこれは言える。
学校生活、勉強、人間関係、上下関係、家族関係…
うまくいくことばかりではない。
予想だにしないところで落ち込んだり、失敗したり、悩んだり、スムーズに人生が進まないこともある。
しかし、そんなときこそスタートに戻って一から立ち上がってほしい。
「次こそは…!次こそは…!」
と何度も学び、何度も実践し、這い上がってほしい。
人生において、マリオであるべきは君たち自身だ。
家族や、友達、先生、私たち夢現塾の教師はあくまでヨッシーのようなサポートキャラでしかない。助けてもらえるピーチ姫でもない。
最後にゴールするのはマリオなのだ。クッパ(ラスボス)を倒せるのはマリオしかいないのだ。
絶賛反抗期中のマリオ諸君へ。
そして、受験生のマリオ諸君へ。
もう一度言おう。
クッパを倒せるのはマリオしかいない。
最後にゴールするのはマリオだ。
君たちにとってのクッパとは。
ゴールとはどこだろう。