6月26日(水)に祖母が他界した。
大正10年生まれで、満102歳。
あの
関東大震災より前に生まれているかと思うと、改めて驚かされる。
父が家を建てた4歳から一緒に住み始め、28歳で一人暮らしを始めるまでの24年間、5人の孫の中で誰よりも長く祖母と過ごしたのは僕だった。
そして、5人の孫の中で最も結婚が遅く
(弟を含め他の孫たちは全員20代で結婚)、最も心配をかけたのも僕だったのだろう。
それだけに、結婚の報告をした時は本当に喜んでくれた。
眼は白内障のため、ほとんど見えなくなっていたが、耳と頭はしっかりしており、昨年までは「〇〇くんは元気かん?」と、20年以上前に会った僕の友人のことまで聞いてきたほどだった。
しかし、6月初旬より固形物が喉を通らなくなりゼリー食になったと聞き、もうそんなに長くないだろうな・・・と覚悟をしていた。
19日(水)に、祖母の呼吸が荒くなってきたと母より連絡があった。
それでも、20日(木)に叔父が面会に行ったときの写真を見る限り顔色もよく見えたし、まだ大丈夫かな?と感じたので、時間のある26日の午前中に会いに行こうと考えていた。
しかし・・・万が一ということもある。
(実際そうなった)
また、土曜だったらLINE電話を使って弟に祖母の様子を見せられるし、声を聞かせることもできるのでは?とも考えた。
湖西市の老人ホームまで、高速道路を使えば1時間ほどで行ける。
そこで、妻の仕事が午後からなので、6/22土曜日の午前中に祖母に会いに行くことにしたのだった。
ここ数年の間はコロナのため、面会はずっとバルコニーのようなところだったので、部屋に行くのは久しぶりだ。
そのため祖母の部屋がうろ覚えになっていたため、老人ホームの職員の方に案内してもらい部屋へと向かった。
顔の写真だけではわからなかったが、祖母のからだはすっかりやせ衰えており、その姿を見ただけで涙が止まらなかった。
そして30分ほどの間、手を握り、ずっとずっと声をかけ続けた。
でも半ば眠っている状態なのか、声をかけても返ってくる言葉は、意思の疎通ができているとは到底思えないものだった。
それでもたぶんこれが最後になるであろうと思い、やせ細った手を握り続け、電話のむこうの弟と二人で、声をかけ続けたのだった。
そして、その予想通りとなった・・・。
亡くなる前日の25日に母が祖母のところに訪れた際、この前僕と妻が会いに来てくれたと、祖母は言ったそうだ。
そうか、ちゃんと聞こえていたのだ、ちゃんと届いていたのだ。
それを聞いて、土曜日(22日)に行ってきて本当によかったと思う反面、水曜日(26日)にしなくてよかった・・・と一瞬冷や汗がでた。
もし、当初の予定通り水曜にしていたら、僕は祖母のところへ向かう途中にその訃報を聞くことになっていたことだろう。
そして、土曜日に
『行けるのに行かなかった』ことを、一生悔やんでいたことだろう。
できるのにやらなかった。
家でゴロゴロしていただけなのに行かなかった。
その自分の怠惰を、一生責め続けることとなったことだろう。
『まあ今日じゃなくてもいいか?』は本当に危険だ。
今日じゃなければ二度とできないこと、間に合わないことはたくさんある。
中3受験生諸君、26日の高校入試説明会でも伝えたけれど、『失敗』してもいいから、『後悔』しない受験にして欲しい。
・・・いや・・・やっぱり『失敗』もなしで(笑)
みんなで『成功』して、来年の3/11は最高の卒業パーティになるように、今日一日を大切にね!
追伸
今日(7/2)は初七日です。
おばあちゃん、20年前に先に天国に旅立ったおじいちゃんと、やっと会えたね。
この20年間は、独りぼっちでちょっと寂しかったよね。
でもこれからは、ずっとずっと一緒だね!!