勉強していて、つまらないと感じることがある。
勉強していて、おもしろいと感じることもある。
勉強だけではなくあらゆる分野で「つまらない」と「おもしろい」の側面が共存しているように思う。
学生時代の部活でのことだ。
サッカーをしていた僕は、始めるのが遅く同級生に明らかな遅れをとっていた。上手くできない時期、サッカーは「つまらない」で占拠されていた。でも、上手くできるようになると「つまらない」はいつの間にか強制退去させられていた。
京都から愛媛まで自転車旅をした時もそうだ。
大変だろうけど、やってみたら「おもしろい」のだろうとの考えだけで計画した自転車旅。ただ、予想の何倍も大変で「おもしろい」なんて感じることはなく、「つまらない」と感じる余裕さえなかった。それでも、愛媛に到着したときには、充実感でいっぱいだった。そして、今、振り返ると、「おもしろい」旅だったと言える。
はじめて自転車が乗れるようになった日。
乗れない時間に比例して「つまらない」が大きくなる。でも、乗れた時には、その巨大化した「つまらない」が消える。しかも一瞬だ。そして空いたスペースには「おもしろい」がいる。まるで最初からいたかのように。
いや、本当に最初からいたのかもしれない。それに気づかないだけで。
やっぱり、「つまらない」と「おもしろい」は同居している。問題は同時に両方を見ることはできないということ。片方を見ていると、もう一方は見えない。しかも、先入観だけでどちらか一方に決めつけてしまうことが多い。
高校時代、サッカーの試合で誰かがアシスタントレフリーをしなければいけない状況になった。テレビ中継で映されるサッカーコートの横を、旗を持って走り回る副審だ。ゴールを決めることもなければ、ボールに触る機会もない。選手ではないのだから当たり前だ。絶対に「つまらない」、それでも誰も名乗り出なかった。仕方なく副審をすることになった。
前半が終わる10分くらい前だろうか、判断するのが難しいプレーが目の前で起きた。僕の判断はオフサイド(ファール)だ。主審からは角度的に正確には見えていない。でも僕からの角度だとはっきり見えている。選手からもベンチからも批判される可能性は十分にあった。だけれども、副審の仕事をしなければならない。旗を振り上げ、ファールを主審にアピールした。主審は笛を吹き、オフサイドの判定を下した。案の定、選手とベンチからのブーイング。これにはイライラさせられたが、試合は相手ボールで再開した。再開してすぐのことだ。主審が僕に向かって『ありがとう!』と叫んだ。主審の在り方としてそれが良かったのかどうかは未だに分からないが、そのあとの僕の動きがより俊敏になったのは、その言葉のせいだ。もしかしたらピッチ上の誰よりも機敏に動いていたのではないだろうか。(笑)
絶対に「つまらない」と思っていたアシスタントレフリーが、「おもしろい」に変わった瞬間だ。
スポーツでも、趣味でも、習い事でも、勉強「つまらない」と「おもしろい」が存在する。
どちらを見るのかは、自分次第。
本人が「つまらない」と感じれば、「おもしろい」は見えない。逆も同じだ。
僕らは、勉強の「おもしろい」を知っている。
まずは、分からないを分かるに。
そして、できないをできるにしていきたい。
そうやって「つまらない」ではなく「おもしろい」を共有をしていきたい。
欲を言えば、これまで経験してきた世の中の「おもしろい」も生徒たちに伝えていきたい。
“You’ve still got it.” 「まだまだ、これからだぜ」