おそらく試合のために遠方から来たと思われる、上下ウインドブレーカーの高校生集団が六名校の前を通り過ぎていく。
友達との話に夢中になりながら、または真っ直ぐ前を向き、黙々速足で六名体育館を目指していく。
「だよねーっ、でさー…」
「シャカッシャカッ(ウインドブレーカーの音)」
「ブーーーーーン(車の音)
「カッカッカッ(六名郵便局から出てくる女性の靴の音)」
様々な音が飛び交う中、ある男子高生が声を上げたのを私は聞き逃さなかった。
「
ゆめうつつ塾だってー」
夢現塾を知らない人でも、夢現塾の前を通ると、「”むげんじゅく”って読むんだねー」と話しているのをよく聞くからなのか、自分の中では勝手に「読めるもの」だと思っていた。
が、「ゆめうつつ塾」とは新しい。
彼にはテレパシーで「むげんじゅくだよ」と訂正をいれたつもりが、隣にいた友達に届いてしまったようで、「違うわ、むげんじゅくだわ!」と鋭くその彼は友達にツッコまれていた。
「ゆめうつつ塾だと、なんか寝ぼけている塾みたいじゃないか」
と私も彼にツッコミをいれたつもりだが、届いているといい…
その日の夜、私は寝転びながらずっとこのことを考えていた。
「ゆめうつつ塾」
なんか嫌な響きである。
「夢現=夢を現実にする」
という意味一筋で6年間夢現塾で過ごしてきた私には、どうもしっくりこない呼ばれ方だったからだ。
ゆめうつつ【夢現】
①夢と現実。
②驚いたり、夢中になったりしてぼんやりしていること。 「驚喜のあまり-となる」
夢なのか現実なのかわからない。
ぼんやりしている。
決していい意味には思えないこの言葉。
しかし私はポジティブに考えてみた。本当に夢を叶えた瞬間、人はまさに「ゆめうつつ」状態になるのではないだろうか。
目の前で起きていることが、夢なのか現実なのか分からない。
まさに、上記②の例文にある「驚喜のあまりゆめうつつとなる」のではないか。
「ゆめうつつ」は決して悪い意味ではないのかもしれない。むしろ、
「驚喜のあまりゆめうつつ状態 → 夢が現実になったことを受け入れる」
流れのほうが、リアルな夢現(むげん)なのかもしれない(笑)
あの男子高生がそこまで考えて発言したとは思えないが、もしそうだとしたら彼に握手を求めたい。
長々と話を進めてしまったが、ゆめうつつだろうと、何だろうと、どうだっていい。
が、最後には夢現(むげん)にしてみせる。
ただの夢では終わらせたくない。
ここは「
夢現塾(むげんじゅく)」だから。